街の記憶
〜同潤会青山アパート〜
根岸競馬場も東京銀行協会もすでにその全盛は在りし日を偲ぶのみとなってしまい、今は抜け殻のみのようなありさまだ。
さて、ここではさらに歴史的に貴重な同潤会青山アパートを取り上げよう。これも、やはり同じ運命をたどろうとしている。
この同潤会青山アパートは、関東大震災のおり、都市サラリーマン層に良好な住宅を供給する目的で、日本で最初にできた都市型アパートで、住宅史における貴重な存在だ。また、そのような学問的見地からだけでなく、実際あの通りを歩いて、ほかの通りにはないなにかを感じないだろうか。通り心地とでもいったらいいのだろうか、ある種落ち着いて、和やかでありながら、都会的感覚に溢れた感覚。これは紛れもなく、このアパートがあるためだろう。この都市景観は一朝一夕には、そう創れるものではない。先人の努力と研究が、それを活かせる時代と幸運にもめぐりあえた結果によるものなのだ。
同潤会
同潤会という一風変わった名前は、実は組織の名前で、「淋同江海之潤」からとられ、広く庶民を潤すという意味であるが、ここでいう庶民は実態として、中流以上の階層を対象としたものであった。従って、真の貧窮層の不良住宅を改善する大規模なスラムクリアランスを目指したものではなかったが、それでも震災復興のため、住居の稠密化と不良街区の健全化、災害に強い不燃構造の住居の実現のために優れた活動をした組織であった。財団法人として設立された同潤会は義捐金を当てられたのだが、これは大正12年から昭和5年までの東京再建予算の1.2%!にあたるもので、相当な期待が託されていたと判ろう。この組織はやがて、住都公団へと役割を変え、解消されていった。
そして、「1923年(大正12)の関東大震災の復興のために、同潤会(どうじゅんかい)が、その事業の一つとして鉄筋コンクリートの集合住宅の建設を始めた。東京都内各所(代官山、神宮参道など)に建てられた同潤会アパートは、優れた計画とデザインによって、第二次世界大戦前におけるもっとも進歩的・文化的な住生活様式を実現した。」(日本大百科全書、小学館:以下「百科」)訳である。
この優れた都市型住居を造りだした人物達は渡辺鐵蔵(住宅政策・都市計画)、池田宏(内務省社会局局長)、佐野利器(耐震構造・RC建築)、内田祥三(耐火建築・工法)という、都市住宅を創りだすために必要な人材の頂点を揃えたような、そろいもそろったりというエキスパートを集めた組織であった。
特に池田は「明治の国家を支えたのを農村とブルジョワジーとするなら、これからの国家を支えるのは都市のサラリーマン層である」。といいきり、富国強兵から次の時代を見据えた社会政策派であった。そして、実際の設計は内田スクールが中心となり、三菱地所から川本良一をトレードして、建築部長とし、その下に鷲巣昌、柘植芳男、黒崎英雄を配した。(藤森照信「昭和住宅物語」新建築社、1990)
日本で初めてのRC住宅、しかも集合住宅はいかなる形で、どうやって建てられるべきなのだろうか。この課題に、参照すべき設計から標準的な施工法もない時代に、「同潤会は一から全てを考え出さねばならなかったわけである。」(マルク・ブルディエ、「同潤会アパート原景」、住まいの図書館出版局、1999:以下「原景」)そして、あのように見事な青山アパート創りだしたのは、まさに歴史的快挙といえよう。
▲ベランダにはめ込まれた長方形にガラスがとても現代的。とても、築75年の物件(?)には思えない。
▲一歩敷地内に入ると多くの多くの緑に囲まれたなんとも、大人のスペース。
耐震耐火構造
「同潤会アパートの建設は、大正時代末期の日本において幾多の調査や科学実験を重ねた新しい建築の技術を、大規模な現場で生かすことのできた唯一の機会でもあった。」(原景)という技術史的にも貴重な経験と成果が反映されたものが同潤会である。これが詳細な調査もされずに、次々と壊されていき、解体9ヶ所、現存7ヶ所という負け越し状態なのだ。保存に力を注ぐ人間にとり、青山アパートは一連の同潤会アパートの天王山であり、勝負どころであるが、相変わらず、人々の無関心と時間との戦いである。有名な建築関係者の中にもこのアパートの重要性が判らず、青山アパートを残す価値が判らないなどと言うのだから、困ったものだ。このような無知は、やはり日本の建築教育が建築史をあまりにおざなりにしてきたためだろう。
少なくとも、海外の建築家でインホテップを知らないような無知な建築家はいない(はずだ)。
失礼、つい脱線してしまった。
さて、言うまでもなく同潤会が画期的であったのは、耐震耐火を目指し、鉄筋コンクリート(Reinforced Concret;RCこれは補強コンクリートという意味なので、鉄筋を入れるとは限らないし、まだこの作り方さえ試行錯誤の時代で、コンクリートをどう練り混ぜるかについてもセオリーはまだ確立されていなかった)を採用したことである。当たり前のように我々は現在、この種の住宅に住んでいるが、実はこのときが初めてのことだったのだ。
従って、RC構造の耐震性、耐火性能はまだ実証されていなかったのだが、耐震性については、大震災のおり、東大講堂がちょうどRCで内田の設計により建設中であったので確認され、耐火性能については実際に他の同潤会アパートで実験確認された。その効果は木造や鉄骨に比べ圧倒的であった。彼らの目論見は正しかったわけである。もちろん、コンクリートミキサーが初めて使用された現場でもあったようだ。
また、コンクリート住宅というと、画一的な標準設計ばかりのように思われているが、このときのプランニング(間取り)は単身者、世帯向きへそれぞれ50以上のバリエーションを同潤会全体で展開している。いかに人々の生活を大切に考えていたか判ろう。
因にこれより少し前大正9年に造られた日本工業倶楽部(http://www.kogyoclub.or.jp/)であるが、これはスラブが無筋!であるところがかなりあるようだ。同潤会はどうなのであろうか。ところで、日本工業倶楽部の内装設計者は鷲巣昌で、同潤会と同じ設計者であった。
▲通り沿いの住居はベランダを改造し、全面ガラスのショーウィンドウとして、使用している。
▲奥の棟にあるギャラリー。道路沿いのギャラリーとは趣が違って落ち着いた感じ。
都市政策
「たとえば、イギリスの住宅政策では、19世紀のなかばに下水道建設が開始されるが、日本の住宅政策は久しくこれを欠いてきた。また、日本の1919年法(劣悪住宅の建築を規制する都市計画法と市街地建築物法)にあたるものは、イギリスではすでに1851年にシャフツベリ法としてつくられ、しかも労働者階級のための住宅対策として明確に立法されている。さらに、ドイツの1902年のアディケス法やイギリスの1909年の住宅・都市計画法では、すでに住宅政策が都市づくりと不可分に追求される基礎がつくられたが、日本では今日までこのような政策を欠いている。」(百科)と言われる中で、同潤会は唯一都市型アパートとして、都市との関係を考慮して都市を成立させるサラリーマンを対象とした公共建築であったのだ。そういう意味で、欧化政策により造られた都市において、我々はまだ都市に住むということを、都市を成立させるマッスのレベルで体験も理解もしていない。それは欧米の都市に行けば一目瞭然だろう。そして、今のような定住人口がなく、住人の自治による都市でもないような「みやこ」は、伝統的日本の都市においてもなかった。従って、明治以降の都市政策の失敗としかいいようがない。
そのため、経済的に厳しい若い家族などが都市に住むことはほとんど不可能で、これは経済力がないため、都市に住めないのではなく、都市政策がないためなのだ。
同潤会はそのような歴史の中で唯一の政策的成果なのだが、RCで都市に集住するため、時代の先端をいく設備を設けた。
■スチールの玄関扉 ■電灯 ■水道 ■各戸の水流式便所(この時汽車式の和式便器が考案された) ■ダストシュート ■屋上の洗濯場などなどである。
また、居住者の年齢層を考慮し、子供の遊び場が設けられたりした。他の同潤会アパートでは、コミュニティーの場として集会所や娯楽室、共同浴場なども設けられた。これはコーポラティブ住宅的の考えを彼らが理解していた事を示している。また、木造家屋に馴染んでいる当時の人々のために、造作と建具は従来の木造家屋と同じ木が採用された。
完全に洋式化しなかったのは、家具工業の未発達と、やはり畳が必須と考えたでためで、結果として、和洋折衷となったようだ。これも今の団地に至るまで踏襲されている。
どうですか?
いかに我々の住戸が彼らの工夫と失敗の上に成立しているか判ろうというものです。
▲夏であれば大きく育ったケヤキ並木と壁面の蔦がとてもキレイ。(車上からの眺め)
▲かつては、このすべり台を使う子供たちもいたのだ。使った子供たちは今頃どうしているのだろう。▲かつては、このすべり台を使う子供たちもいたのだ。使った子供たちは今頃どうしているのだろう。▲かつては、このすべり台を使う子供たちもいたのだ。使った子供たちは今頃どうしているのだろう。
青山アパート...シャンゼリゼの誕生
蔦や、小さな植物を、壁や廂に抱いた、青山アパートの壁面は、よく育ったケヤキ並木と共に、都市の中にあって、季節を感じさせてくれる。
これは、日本有数の流行発進地(流通新聞や繊維新聞を持ちだして、実態は違うとおっしゃいますな)でありながら、低層住戸があるためにもたらされる、ある落ち着いた雰囲気があるからだ。深く景観に馴染んだそのファサードは、決して、強烈な自己主張をせず、いつも静かに佇んでいる。これが他の通りにはない特徴で、騒がしい流行発進地はいくらでもある。
商業地区の大通りに面して、集合住戸が配されている、このような住み方こそが、実は都市に住まう基本なのだ。しかし、都会に住むことは経済原理では成立せず、政策なくしては不可能なことである。それは欧米も同様(前の欧米の都市住宅政策の法規を参照)。
都市住宅政策の成果である同潤会の存在が、都市的景観を造りだし、日本のシャンゼリゼと呼ばれるのはあながちはずれてはいないのだ。
しかし、シャンゼリゼと呼ばれる理由は、他にもあって、ご存知のように、道路勾配と並木にその秘密がある。また、通りの幅員の大きさが、名古屋的にオーバースケールに感じないのも同様で、シャンゼリゼと同じく丘に立てば、通りを一望でき、その眺望を楽しむことができるからである。
そして、シャンゼリゼは、その終点の丘の上に、凱旋門がランドマークとして、中心的存在を誇示しているが、表参道はそれに相当するものが無い。ここが実は決定的に異なる点で、ロラン・バルトがいう中心の喪失なのである。あの遠くに低く小さくに見える神宮の森こそが表徴の帝国の依代で、シンボルのあり方が欧米と決定的に違うことを教えてくれる。これは日本にしかない、日本的都市景観と言えよう。決定的に違うことを教えてくれる。日本にしかない、日本的都市景観と言えよう。
このシャンゼリゼ的通りを演出するアパートのセットバックや植栽の配置は、実は計画的に考案されたものではなかった。
▲原宿から青山・渋谷に抜けるこの辺り、今や若者たちの聖地(?)と化している。
▲フェラーリがさりげなく止まる、表参道の同潤会アパート前。こういう組み合せもいいですね。
都市に住む
近所に住む中将(といえばスタートレックの艦長は大佐だからもっと偉いのであった)から「神聖な参宮通りに西洋の貧民長屋のようなアパートを建てると聞いた。もし、窓に布団を干したり、オムツを干すようなことがあったら誠に恐れ多い」とクレームがあったためなのだ!
そのため、■建物を道路から後退させ、■そこに植樹帯を設け建物を遮蔽し、■さらに屋上のパラペット(転落防止の手摺り壁)を高くして、■洗濯場と物干場を設け、ベランダには絶対に物を干さないようにしたそうである。今の通りに対する優れた景観は、なんと、この中将のおかげであった!
あのパリの大改造をし現在のパリを形作った、オースマンの様な英雄の所為ではなかったのでした。
やはり中将は偉かった。
さて、以上長々お付き合いいただき大変ありがとうございました。
▲ 奥の棟のギャラリーより外を見る。ダストシュートが見える。
▲夕日に染まるファサード。色あせた外壁の質感でさえ我々を引きつけてやまない。