街の記憶
〜根岸競馬場〜
失われ、或いは姿を変えていった名建築として前のタイトルでは東京銀行協会を取り上げたが、ここではトレンディーな競馬場を取り上げてみる。
空前の競馬ブームの中、日本で初めての競馬場観覧席が平成元年〔1989年〕姿を消した。ロイヤルボックス付きの、いわば、ワンランクアップの由緒正しき競馬場であった。
筆者は、記録保存のカメラマンとして撮影させていただいたが、多くの建築を観てきた中で、ピラネージを思わせるような壮大、かつ荒涼たる迫力の廃虚は初めて体験した。実に貴重な経験であった。
思えば、昔はよく近くに廃屋があり、お化け屋敷とされていたものだ。当時の本当に怖かった思いは、今では懐かしい記憶に過ぎないが、なにか人格形成上、あるいは創造力の涵養に貴重な体験ではなかったか、という気がする。
今回は、保存復元して残すべき建築という視点ではなく(もちろん復元する価値は合ったと私は信じているが)、残すべき廃虚という、公衆の利益とは少し合致しない、ちょっと危険な視点からレポートしてみたい。
日本で最初の競馬場
まず、根岸競馬場の沿革を調べると、1866年、外国人居留地の整備計画の一環として、根岸にテニスコート、射撃場などと並んで、日本で最初の近代競馬場が造られたことに始まる。
当時競馬にエントリーできるのは居留の商工クラスの者だけであったようだが、やがて日本人にも解放され、日本で最初に西郷従道がレースクラブの会員になり、愛馬”みかん”に跨がり、なんと初優勝を遂げている。
少し前までは競馬などというギャンブルは健全な婦女子の行く場ではないとされ、今でもその気風は残っている。しかし、以上のエピソードからも、かつての根岸競馬場が華やかな居留地社交界の舞台であることがわかろう。
1929年、シティバンクなどを設計した横浜ゆかりのアメリカ人建築家J.H.モルガンの設計によって、現在の根岸競馬場が建設された。一等観覧席と二等観覧席に棟を分かたれ、建築的には上等と言える。今回取り壊されたのは、二等観覧席である。しかし、一等観覧席の二倍以上長大で、丘の上に立つ雄大なスケールの二等観覧席こそが根岸競馬場の身上であった。
▲ スタンド最上部よりかつての馬場を望む。現在はアメリカ軍の駐留地。その向こうは公園と湾が広がる。
▲坂の上にある観覧席へと急坂を上がると、中腹よりその大きな姿を見せてくる。なかなかドラマティックなアプローチといえる。
大きな景色
人間の造り出してきたものでも最大のものが都市である。都市は人間生活の多くを内包しているが、独裁者ならずともその多様な活動を一望し、都市のヴォリュームを掴みたいという気持ちは誰にでもある。これには大別して二つの手法があろう。一つは、巨大な構築物が都市のランドマークとして中央に存在し、そこから都市を見渡す、というのが西欧的感覚。もう一つは、日本の場合に多く、全く逆に周囲の山々などがランドマークとなり、自然の懐に抱かれた街並みを眺望するという手法である。この根岸では、巧まずして東西の方法論が折衷したように、巨大な建築が丘の上に築かれ、大きな景色を獲得している。この大舞台から見晴らす景色こそが根岸二等観覧席の最大の美点といえるだろう。なかなか稀な空間を体験させてくれた。
▲ざっくりと仕上、巨大なボリュームに合わせた、というよりやはり細かなことは気にしないという、アメリカ的センスのようだ。
外部の様子
▲ 遠くに海が望める。
▲ ペントハウス。ロボットの頭のようで、ユーモラスな形だ。
ディテール
内部は廃虚である。特に語るべきディテールは二等観客席にはあまりない。外観には昭和初期らしい西洋建築の伝統的モチーフが使用されているが、全体の印象やその大掴みなプロポーションは近代建築そのものなので、柱型や繰形が張り付いて居るような印象を与える。近代建築の装飾罪悪論を正当化するような皮相な飾りである。
しかし、この大きなスケールを取りまとめる意匠的手がかりは、当時欧米人の社交界の舞台という施設条件から言えば、これしかなかったのかもしれない。もちろん規模に比べて低予算だったことが大きな理由だろう。
様式的装飾が見れるようになるのは、当の装飾だけでなく、躯体のプロポーションまでも左右することなので本来的には、大変コストのかさむものなのである。
経済的近代建築のへの移行期に造られた過渡的な建物といえよう。
▲コーニスの繰形は木に銅板を打ち付けた経済的なもの。
▲鉄骨のベースを大玉縁のついた台座とするのは珍しい。
▲観覧席裏手のホール。ガラスと書類が飛散し、かつて華やかな社交の場が無残にも改築、放棄されていた。
廃墟
さて廃虚であるが、一般的に近代建築の廃虚にはロマンチシズムはない。あるのは死への恐怖を思い起さぜる腐敗的な汚損である。特に仕上材が朽ちて、配管や下地が露出している様は、内蔵の腐敗にも例えられ,醜いものである。割れたガラスの散乱は暴力的荒廃を惑じさせる。
しかし、根岸の内部空間は大きく、特にパドックは人工地盤上に築かれたようになっており、下部には広大な空問が広がっている。この無目的空間が実に廃虚らしい廃虚なのである。設備のない大空間は廃虚になっても絵になるということを体感した次第だ。かつて西欧では、廃虚といえぱ栄光のローマ時代を追慕する、厭世的ロマン主義の想像力の源泉となったものである。
しかし、別にローマの遣跡でなくとも廃虚とはなにやら得体が知れず、騎れるもの久しからずの哀れをさそい、警戒心と感傷の交錯する不思議な空間であった。そして何よりも、その空間を自分の他は誰も占有していないというところからくる、解放感とアナーキーな魅力がある。管理が放棄された場所の危険な魅力といえよう。
▲パドック下の部分。現設計図で、アンアサインドルームとされ、物置と意訳されていたが、何とも大きな物置だ。
▲ピラネージ的なイメージをほうふつさせる廃虚は日本では稀なのではないかと思われる。パドック下部。
▲様々な形と位置の窓から多様な光が差し込む観覧席への通路。光には影が必要です。
光と影
都市が人の造り出したものである以上、都市も生まれ、育ち、死んで行く。都市全体だけでなく、都市の一部分もまた同様である。また、その巨大さ故に人知を尽くしても予測できない部分がどうしても発生してくる。ところが、その様な部分にこそ、むしろその都市の個性が現れることもある。都市の風格、歴史を顕わしている部分となるのである。つまり、それは川向うであったり、盛り場の外れ、旧市街である。いわば綻びの様な部分、裏の部分である。
都市開発の際に自然発生したこの綻びを者市計画者や建築設計者が自ら計画することは不可能であろう。だが、発生した綻びをうまく取り入れること、あるいは、それを許す余裕のある計画。っまり、綻びが生じても全体が破綻しない強固な計画(それはリジッドな計画を意味してはいない)は可能なのではないだろうか。簡単にいえぱ間の抜けた部分を許すような、冗長性に富んだ計画こそ人の住む街だといえよう。それは一義的・直線的構造の都市ではなく、柔らかい有機的な都市である。時には廃虚を廃虚として残しておけるだけの懐の大きい街に住みたいものだ。
▲観覧席の朽ちた鋳鉄製の手摺。その向こうの生きた市街地とは大きな対照をなす。
▲長大な観覧席下部。光と影が廃虚に交錯する。
▲ひとつ残された椅子が光りに浮き上がる。