ピラミッド
〜ギザの三大ピラミッド〜
エジプトには昔からこのような格言が誇りを持って伝えられています。「全世界は時の流れの前にひれ伏すが、時はピラミッドの前にひれ伏す。」かくの如し。 確かに、その巨大さ、その堅固さ、その明快さ、その神秘さ、これら全てを兼ね備えて、大ピラミッドに勝る建造物は存在しないでしょう。その上、4500年前の最古の石造建築物の一つなのですから、いうべき言葉を知りません。
古さ故なのか判りませんが、建築の根元的な力、そのすばらしさを端的に伝えてくれる傑作です。
是非、ご自身の目で御覧になり、体で感じられることをおすすめする次第です。最もこれほどのことをいえば、現物を見ると、なんだ崩れかけたチョコレートの山じゃないか! という落胆のご感想をもたれる方も、いるやもしれません。残念ながら、それも外れてはおりません。さりながら、です。やはり、必見であります。あれこそが建築の一典型。モニュメントの究極の姿、なのです。語るにはあまりに巨大で偉大な建築であり、なんだか足下がおぼつきませんが、なんとかそのすばらしさの一端でもお伝えできればうれしい次第です。
ピラミッドのロケーション
ピラミッドといえばギザの3大ピラミッドが最も有名で、砂漠の真っ直中に忽然と存在しているように思われますが、実は水と緑にあふれたナイル川沿いにあります。ナイル川の東岸が生者の都で、彼岸である西岸が死者の都というわけです。その彼岸でナイル川の洪水にも侵されない、ちょっと奥まった岩盤の高台上にピラミッドは位置しています。ここからは、ギザの町が一望でき、きっと王達は不滅の死者となった後も、なお繁栄する都をこの台地から見守りたかったに違いありません。
そして、亡くなった王は船に乗せられ、ナイル川で彼岸にわたり、岸辺の河岸神殿で、ミイラにされ、分厚い石でトンネル状に造られた参道でピラミッドに運ばれ、ピラミッド前の葬祭神殿で復活の儀式を経てピラミッドへ埋葬されたようです。儀式の舞台となるこの河岸神殿と葬祭神殿、ピラミッド、王妃達のピラミッドといわれている副ピラミッド、それらを結ぶ参道と囲いが1セットでピラミッドコンプレックスと呼ばるその全貌です。できあがったばかりのピラミッドは、今見るような階段状ではなく、完璧な四角錐で、磨き上げられた、白色の石灰岩で覆われ、その頂部にはキャップストーンと呼ばれる金箔貼りの花崗岩が輝いていたそうです。日の光を浴びて輝くその姿は今の比ではなかったことでしょう。どなたか復元していただけないものでしょうか?と書いたところで、なんと、クフ王のキャップストーンが2000年の1月1日に復元される計画があったようです。素晴らしい! がその後の話を聞いていません。中止になったんですかね~。ぜひ、キャップストーン付きの大ピラミッドを見てみたいものです。
三大ピラミッド
このギザの台地に右からクフ王、カフラー王、メンカウラー王の3大ピラミッドがあります。
第3王朝スネフェル王の息子である第4王朝のクフ王のピラミッドが最も大きく、高さは約140m、底辺は一辺約230m、現在は頂部が10m程失われています。設計者はクフ王の宰相ヘムオンで、うるさい人物だったのか、このピラミッドは異常な正確さを誇っています。底辺の平均からの誤差最大111mm最小7mmでした。それが、東西南北にほぼぴったりあっているのですから、驚くべき精度といえるでしょう。次に建造されたのがその隣のカフラー王(クフの息子)のピラミッドで、最も痛んでいないピラミッドで、頂部があまりかけていないため現在では一番高く、上部では化粧石の一部が残っています。ピラミッドコンプレックスのまとまった姿を見ることができる特徴があります。そして、3番目がその息子のメンカウラー王のピラミッドで、 最も小さく、底辺はクフおじいちゃんの1/2位になってしまいました。体積は1/8にもなってしまうので、建設費はだいぶ安くなったでしょう。小さくなった理由として、国力あるいは権威が衰えていったからという説明が多いようです。しかし、王妃達の墓は数も大きさもそれほど変わっていないので、旦那の権威は落ちても、女房・母の権威と財力は衰えなかったという事だったのでしょうか? これだけは本当かも知れません。
左からクフ王、カフラー王、メンカウラー王、一番右の小さなピラミッドはメンカウラーの王妃達のピラミッドといわれている。
メンカウラーの王妃達のピラミッド。人と比べるとだいぶ小さいことが解るでしょう。
その目的
ピラミッドは何の目的で建設されたのか?
他星人の宇宙船の発着場であるとか、1万年以上昔の超古代文明人の遺跡であるとか、いろいろありますが、状況からいって3大ピラミッドは約4500年前の王の墓であるというのが順当なところです。しかし、最も大きいクフ王のピラミッドに限ってお話しすれば、唯一見つかった石棺は完成していないようで、しかもミイラを入れるのは小さすぎ、全く素っ気ないものでした。しかも、現存する内部へ至る、たった一つの通路が穿たれたのは、9世紀の探検隊が開けたもので、彼らは既にある盗掘の穴が見つからなかったの苦労して開けたのでした。その時点で、既に副葬品も全くな かったのはどうしてなのでしょう。王墓ならば華麗に埋葬されたはずで、何らかの痕跡があるはずだとは思いませんか?
もっともクフ王の現存する像は、わずか一つでしかもその大きさは3~4cmしかありません。あれほど巨大なモニュメントを建てた王の像がちっぽけな像一つとは! 他の王達は立派な像をいくつも残しています。それを考えると、よほど変わり者の王であったということで、玄室の素っ気なさを理解することができるかもしれません(本当?)。まあ、墓というしかないだろう、というところでしょうか。
三大ピラミッドのすぐ近くに広がる現代のお墓。由緒あるピラミッドのふもとのお墓は人気が高いのでしょうか。
▲ クフ王のピラミッドの入り口付近。斜面に人が集まっている所が、現在の入り口。その左上の大きくえぐられている部分が、本来の入り口だが、岩が大きく現在もふさがっている。地面に接するところの斜めの石は、残った化粧の石。
その形態
その単純な幾何形態が何を意味しているのか大変興味深いものがあります。これほどの事業が合理的あるいは合目的な意味合いなしに建設されることはないからです。最初のピラミッドであるジェセル王の階段ピラミッドの設計者はクフ王の5代前のジェセル王の宰相にして建築家、彫刻家にして、へリオポリス神殿の最高司祭イムへテプでした。(何と忙しそうな人なのでしょう!)。そして、このへリオポリス神殿の神が太陽神ラーであることもあり、雲間から漏れる太陽の日をデザインした、あるいは、王が天へと上がる階段を象徴的に表現したものだというのが通説です。そし てこれ以降、その形態が基本的に受け継がれました。また、高くなるほど工事量が減り、石も小さくできるという形状は建設合理性からいっても、納得のいく形態ではあります。しかし、だからといって、なぜ、クフ王のピラミッドの傾斜角が51度52分なのかまでは解りません。
これは、永遠の謎かもしれません。しかし、美しい角度であることは間違いなく、むしろ謎はこの角度を美しいと感じ続けてきた人間の時空を越えた普遍的な感覚なのかもしれません。
本来の入り口を支える花崗岩の巨大な石。
クフ王のピラミッド。次のページから、 このクフ王の内部へ入ります。
建設方法
建設方法も実は謎が多いのです。一体どうやって鉄や車輪、起重機のない時代にあれ程のものを作れたのでしょうか。今でも容易ではありません。建設後2000年たってから歴史の父ヘロドトスが記しているところによると20万の人々が30年の月日を費やして完成させたとあります。
まず、正確な水平の基盤を造らねばなりませんが、これは溝に水を貯めて、その水位に合わせて岩場を削ることにより水平を造りだしていったようです。次に、夜中、星が昇り沈む場所を観測点からそれぞれ記録し、その2等分線で真北を割り出しました。そし て、長さは円盤に目盛りを刻んだものをコロコロ引いて測ったようです。石の切り出しは、青銅のくさびを使い、多くのくさびを打ち込む事により切り出し、より硬い岩で、整形していったようです。気の遠くなるような行程ですね。
そして、運搬ですが、簡易舗装されて滑りやすくなった道路の上を木製のそりを引いて運搬したようです。次に、積み上げ方ですが、緩やかな勾配の道を作業の高さまで築いて、その斜路を石を引いて積み上げていったようです。このようにして出来たのではないかというのが現在の通説です。
クフ王のピラミッドの内部に入ってみましょう。現在の入り口である盗掘坑を入るとこんな感じです。なんだか映画のセットみたいですが、これが本物なんですね。
上の写真から少し行くと1m角程の上昇する40mぐらいのながい急斜面のトンネルが続きます。これが結構きつい。夏は暑くて大変です。
大公共事業
ピラミッド建設は、ハリウッド映画による偏見のためか、ムチを振るった強制労働のイメージが強いのですが、実はこの時代、奴隷そのものが戦争捕虜以外は存在しませんでした。建設に当たったのは、ナイル川が氾濫している農閑期に全国から集められた農民達で、ビール付きで衣食住が保証されていたようで、今の失業対策より充実しているのではないでしょうか。
また、栄光ある王の不死を得るための墳墓に工事を通じてたずさわれることは、彼らにとって進んで参加したい宗教行事でもあったようです。全国から集められた人々は、共通の目的のために働くことにより、エジプト国民としての意識を持ち、王に集められた富の再配分を受け、ともすればナイル川の上流と下流で対立しがちであった人々を結びつけたのに違いありません。いわば、ピラミッド建設は、単に墓の造営という以上の国の宗教、文化、経済、さらに国そのものの建設という意味合いに近いスーパープロジェクトであったようです。平和で富にあふれたときに彼らは有り余るエネルギーで何を成したのか? 彼らは無謀にも時の流れに抗ったのです。そして見事に成功しました。エジプトの空に屹立するその偉容はこれからも健在でしょう。そして、時に対する挑戦が決して無駄ではないことをわれわれに、さらには、未来へも告げているのです。
▲トンネルを抜けるといきなり大回廊と呼ばれている大空間が広がっています。幅2m高さが6m程の上昇する通路が50m程続きます。そこの突き当たりを昇り、侵入者を防ぐ石落としの間を抜けると、いよいよ王の間です。
王の間。よくある玄室内部の写真ですが、フラッシュをたくとお金をせびられるので、ノーフラッシュの珍しい写真です。