江戸時代東海道の宿駅であった大磯宿が、明治維新後近代のまちとして蘇ったのは、明治18年海水浴場が開設され、明治20年には東海道線が開通したことによる。多くの政財界の人たちが保養の別荘を建てるようになり、大磯は一躍湘南海岸のステータスリゾート・タウンとして戦前まで賑わうことになった。その大磯の地に、明治19年(1886)I.H.コレル師ら数名の米国の宣教師が大磯の国府村に伝道に訪れたのはその頃のことで、地元の村民近藤市太郎(1856~1936)ら18名が受洗し、日本美以(みい:メソジスト)国府教会を創立した。
大磯教会は日本美以国府教会大磯講義所として明治33年(1900)に創立された。
現在の大磯教会建設の計画は昭和8年に始まり、翌年茶屋町の現在地に土地を購入し、昭和11年(1936)定礎式、昭和12年2月11日に献堂式が行われ、大磯の別荘地に訪れてきた多くの人々にも受け継がれることになった
創建当初から現在まで敷地は変わっていない。宿場町によくある街道に面し間口が狭く奥に細長い敷地で、旧東海道に接して表から順番に、前庭、礼拝堂、中庭、牧師館、奥庭という構成で建てられ、奥庭は細街路(2項道路)に接していた。その後、一時は幼稚園が増築されたりしたがそれ以外は修理程度であった。
そのため築80年を超えた木造教会は、老朽化が激しく、設備の更新も進まないため、一時は、建替えの検討もされましたが、半世紀以上を超えて国道1号線からも見える赤い屋根の可愛らしい木造教会は、教会員さんだけでなく大磯町のランドマークとしても町の方々にも愛されていたころが、再確認され、一転して、教会は、改修再生工事となりました。
礼拝堂の背後に2階建ての牧師館が見える。
牧師館の2階の窓からは、海が見渡せたとのことであるが、老朽化のため居住スペースとしては大規模な改修が必要であった。
改修前の大磯教会
改修後の大磯教会
永く親しまれてきた外観を大きく変えることなく新たに塔屋を戴き、十字架を掲げた。これにより、国道1号線からも新たなランドマークとなった。
改修前の大磯教会正面
東海道に面した玄関部正面は総2階建、急勾配の切妻屋根を頂いた中央部を道路側へ突出させ、1階を玄関ポーチとしている。創建時は完全な左右対称の正面であったが、後に1階西側に手洗い所を北側へ増設し尖頭アーチの窓枠は廃された。当初は中央部の二階にガラスを嵌められた飾り窓があったが中央部外壁の剥落事故があり廃された。尖頭アーチやステンドグラス、正面中央の急勾配の切妻などゴシック風を基調に外観はまとめられている。さらに一階出角にはバットレス風に角を突出させ、その二階出角にはコーナーストーン風の飾りをつけている形態はゴシック的であるが、いずれも下見板の重ね張りをしてその形状を成しているのはユニークである。一方、正面破風にはロンバルディアンベルト風の飾りとジグザグ形状の軒下飾りはロマネスク的である。
改修後の大磯教会正面
外観色合いは、改修前の色合いを継承し、以前の改修で正面中央2階の窓は、塗り込められていたが、今回の改修により創建時のとおりに窓として復活させた。
また、2階角の角石風飾りも復活させた。
創建時から、玄関正面に十字架に百合をあしらった美しいデザインのステンドグラスがあったが、室内側からは、梁に隠れて見ることができなかった。今回の改修で梁を一部切り上げ、室内側からもステンドグラスから光が入るようにした。
創建時にあった1階角の控壁飾りを復活
改修前の教会玄関
玄関扉の上部の壁に内側からは、ステンドグラスは見られない。
改修後の教会玄関
ステンドグラスから優しい光が差し込むようになった。
大磯教会の礼拝堂は二階まで達する一層。三間五間のやや奥に長い単廊形式である。東西外壁側にハンマービーム風の飾りを天井に設けている。構造的にはハンマービームではなく方杖的に小屋裏のトラスを支えており整理されていない構造である。したがって意匠的な工夫といえよう。
礼拝堂正面には講壇(祭壇、アプス)を設けられているが小さな講堂に対して大変立派で、様式的に最も手が込んだコリント風の柱頭をもつ半円柱とその上部を尖塔アーチが結んでおり、この教会のゴシック的な意匠の焦点といえよう。
後述するが由来のある意匠である。祭壇の両脇には扉があり、この扉にもヤコブの梯子が桟としてデザインされている。礼拝堂側面の上げ下げ窓は現在では製造されていない粒の大きいダイアカットの黄色の色硝子で、色もややくすんでおり今はない色合いである。この窓上部は尖頭アーチではなく、三角形の直線的な形状になっている。窓の桟も独特で、梯子形状をしており、このモチーフは雲間から漏れる光束を天と地を繋ぐ梯子と見立て、キリスト教ではヤコブの梯子と言われている。
改修前の礼拝堂(祭壇に向かって)
改修後の礼拝堂(祭壇に向かって)
礼拝堂側面の上げ下げ窓は現在では製造されていない粒の大きいダイアカットの黄色の色硝子で、色もややくすんでおり今はない色合いである。この窓上部は尖頭アーチではなく、三角形の直線的な形状になっている。窓の桟も独特で、梯子形状をしており、このモチーフは雲間から漏れる光束を天と地を繋ぐ梯子と見立て、キリスト教ではヤコブの梯子と言われている。
礼拝堂の天井は雨漏り等あり当初の天井の下にさらに天井を重ねる改修がされていた。天井を剥がすと当初の天井が現れ、格天井風となっていたことが今回の修理により判明し、これを不燃材料で再現した。刳形も厚さを増し小さい礼拝堂であるが格式を高めている。改修の際、照明を蛍光灯からLEDを使用し、すっきりとさせた。また、礼拝堂内の塗装も一新された。
礼拝堂北側 改修前
正面二階のいわゆるクワイヤ(聖歌隊席)の位置が和室畳敷き、漆喰仕上げの土壁の部屋である。この和室から礼拝堂が望め、礼拝に参加できるようになっている。今では全国的に希少な形式となってしまった。
2階和室(クワイヤ)改修前
礼拝堂北側 改修後
窓前の空間を収納スペースとし、さらに両サイドの空間には、礼拝堂用の大型空調の室内機を格納した。
また、以前の改修の際、塗り込められていた玄関上の2階の窓を今回の改修により窓として復活させたため、室内側は、光が入る趣のある展示スペースとなった。以前の改修の際、塗り込められていた玄関上の窓を今回の改修により窓として復活させたため、光が入る趣のある展示スペースとなった。
2階和室(クワイヤ)改修後
洗面所周りを整理し多目的トイレに改修した。
そのため、明るく使いやすいトイレとなった。
玄関横のトイレ及び洗面所の改修
かつての幼稚園として建てられた増築部分であったため、収納も少なく手狭であった集会室は、礼拝堂と床のレベルが違うため、段差があり、さらに老朽化のため床も傾き、扉も閉めにくくなっていた。
改修前の集会室
改修後の集会室
礼拝堂より後部の部分を撤去し集会室と牧師館を増設した。
集会室は、十分なスペースを確保し、窓には、ヤコブの階段をモチーフとした壁装飾や、天使の階段をモチーフとしたラスして拡張高などペースとしたため、第二礼拝堂として使用可能な集会室となった。
柱のない空間を創るため天井の構造を工夫したため、中央が高い折り板状の天井となった。
見上げると網状の桟が見える。このデザインは、海に網を打つ聖書の逸話に沿うものである。
礼拝堂側の壁際にガス暖炉を設置し、両サイドを飾り棚とした。このため、集会室全体の中心ともなり一方でガス暖炉の暖かさとあかりで礼拝に来た人々を暖め、癒す穏やかな空間にもなった。
木造建築の増築にあたり、現在の法律にによると築80年余りの木造礼拝堂の窓にも、耐火性能が求められたが、創建時のステンドグラスを網入りガラスに置き換えることは選ばず、その代わり窓の外側に鉄製の鎧戸を設置し、さらに今までの景観を損なわないように、鎧戸の表面に外壁と同じ下見板を貼った。それにより、景観を保残しながら、現行法規に適合する窓に改修することができた。
改修後の礼拝堂の外壁
改修後の牧師館
南側道路から牧師館を眺める(改修後は赤い屋根の上に十字架が見える)
大磯教会建設時に牧師をしていたのは阿部銀蔵牧師であった。昭和6年(1931)から昭和12年(1937)というまさに現礼拝堂の創建時代の牧師である※7。阿部銀蔵牧師(1900?~1974?)は大正二年(1913)の大凶作で孤児となり、桜庭駒五郎(1871~1955)の養子となっている。桜庭は東北で有名なクリスチャン棟梁であった。桜庭は東洋英和学院を中退し、大倉土木の下で明治天皇の伏見桃山御陵の礫葺施工の責任者ともなっている(以上、間山洋八(1985)『基督教棟梁桜庭駒五郎の軌跡』大観堂書店、12頁)。独立してからは弘前学院外人宣教師館(国重文)、日本基督教団弘前教会(青森県重文)、旧津山基督教図書館(国登録、岡山)、岡山備前の香登教会などで知られている(以上、間山洋八(1985)『基督教棟梁桜庭駒五郎の軌跡』大観堂書店、7-8頁)。
その弘前教会は本多庸一を開設者としており、彼の指導を仰ぎ桜庭はクリスチャンとなっている。本多は明治時代に新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造と並ぶキリスト教主義の教育者として著名であった。大磯教会には本多庸一の直筆の書が保存されていることも貴重である。
阿部が大磯教会建立の際には、養父の桜庭より桜庭自作の旧津山基督教図書館、香登教会の見学を阿部は勧められている※8。そのため大磯教会の構成は弘前や香登教会と同様の正面入口の二階に和室をもち礼拝堂を見下ろす形になっている。
礼拝堂の天井は雨漏り等あり当初の天井の下にさらに天井を重ねる改修がされていた。天井を剥がすと当初の天響が現れ、格天井風となっていたことが今回の修理により判明し、これを不燃材料で再現した。形も厚さを増し小さい礼拝堂であるが格式を高めている。さらに下見板仕上げのゴシックを基調とするポインテッドアーチや、特徴的な外壁出隅にバットレス風の飾りを下見板にて作ることや講壇の両脇に柱を建てたアプス状になっていることも香登教会や重文の弘前教会と共通であり、桜庭駒五郎の影響は極めて大きいといえよう。これらの特徴は昭和の建築であるにもかかわらず明治期の擬洋風を想起させるもので、昭和12年で既に同時代的なものではなくユニークといえる。施主と設計者の創意工夫といってよいだろう。小川三知のステンドグラスでも有名な安藤記念教会(港区、国登録)の附属幼稚園に勤めていた保母のデザインによるステンドグラスが入り口上部にある。
以上のことから、戦災をくぐり抜けオリジナルを留めていること、類似の例もないこと、そのデザインの由来からもよく日本における基督教会の伝播の歴史を意匠からも伝えていることから大磯町の貴重な文化財と言える
今回の改修で、教会の門柱及び塀も国登録文化財となった。
教会正面の塀はコンクリート洗い出しによるもので、創建時のものが残っている。昭和初期まで多く見られた塀であるが、大磯にはもう見当たらず昭和初期をよく伝える貴重な遺構となっている。塀は柱梁を基本にロマネスク的な石積みのような厚さを持ち、その柱梁中にキーストーンの刳形のあるアーチを備え、ゴシック風の教会堂に相応しい門塀となっている。しかしアーチは曖昧な曲率であり、アーチが柱梁の中に収められていることも含めて意匠は本体と同様に擬洋風というのが最も相応しい。門柱頂部にはキリスト教義の三位一体をモチーフにした三条の溝が彫られている。類似例もなく、礼拝堂と共に近隣にも大切にされ、大磯町の財産と言える。
大磯町の景観重要建造物ともななった。